仏教

第二の矢の教え

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釈尊は、次のように弟子達に尋ねた。

まだ私の教えを知らない者にも、心楽しい時もあれば、苦しい時もある。
すでに私の教えを知っている弟子たちにも、心楽しい時もあれば、苦しい時もある。まだ私の教えを知らない者と弟子のあいだには、どのような違いがあるか。

弟子達は謙虚に言った。

分かりません。貴い人よ、どうか教えて下さい。私たちは貴方の教えを根本とし、貴方を眼目として生きているのですから。

釈尊は絶妙の譬えをもって答えた。

不幸にして、矢に打たれた人があるとしよう。
ここで、次にどうするのかに関して、二種に分かれるだろう。

一人は、慌てふためき、第二の矢を受けてしまう人。
もう一人は、矢に打たれても痛みに耐え動揺せず、第二の矢をかわすことの出来る人である。

釈尊は続ける。

仏の教えを知らない凡夫は、最初の人である。苦しさに嘆き悲しんで、混迷の心は深まるばかり。

楽も、かえって迷いの心を増すばかりである。
仏の教えを知る人は、第二の人である。苦しみを受けてもそれに耐え、苦しみに囚われることが無くなり、生死の束縛を脱する事が出来る。

このことが、仏教を知らない者と知る者との違いなのである

[出典:雑阿含経(サンユッタ・ニカーヤ samyutta-nikaaya)〜第17-箭経]

 

凡夫というものは、お釈迦様はお悟りを開かれた偉大な方だからきっと暑いとか寒いとか感じないんだろなあ、どうやったらお釈迦様のようになれるのかなあ?
などと安易に考えてしまいがちです。

そんな凡夫に対してお釈迦様は優しく静かに諭します。

「例えば弓矢が飛んできまして、体に刺さったりしたら誰でも痛いですよね。私だって痛いです。それと同じように、私もあなたたちと同じように暑いときは暑いし、寒いときは寒いのですよ」

「では、私とお釈迦様は、同じなのでしょうか」

「暑いという第一の矢が当たるところまでは、あなた方と私は同じですけれど、その後が違うのです。
私の場合は、今日は暑いなあで終わりですけれども、あなたがたは、暑いから水を浴びたいとか、涼しい風にあたりたいとかいろんな事を考えて、第二、第三の矢があたっています。私は夏は暑いのが当たり前だと思っていますから、第二の矢があたらないのです」

仏教を知らない人は、楽しい事、嬉しい事、快楽を得るとそれに執着しもっと欲しいと貪(むさぼ)りの念をおこし、苦に出逢うと瞋(いか)りの感情に囚われてしまい、いよいよ混迷していくものです。

仏教を学んだ人は、外界の刺激のあって様々な感覚は触発されますが、いたずらに感情を増幅させられることがないというのです。

 

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